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経過_1_うつろいゆくもの.txt

  • 執筆者の写真: ペトリ皿エタノール
    ペトリ皿エタノール
  • 7月20日
  • 読了時間: 3分

 イヤーマフ越しに、ぱちぱちと鳴る小さなタイピングの音だけを聞いていた。首元や後頭部に繋がれたコードが外れないように、わたしはじっと座ったままでいる。作業場の中は――というか、この家は、どこもかしこも散らかっている。あの物置と比べても、部屋の明るさぐらいしか違いがない。少し気になるが、わたしには片付けをする術がないのでどうしようもない。

 相変わらず隈のある暗い目――わたしの製作者は、モニターに映る文字の羅列をぼんやりと追いかけていた。素人目には分からないが、きっとこれが、わたしを構成するプログラムなのだろう。今日は定期的なメンテナンスの日で、わたしの中に少しずつ生まれ続ける綻びを、この人は何度も修正している。まるで賽の河原のよう。

『少し休んだらどうですか』

そう出力してみるが、たぶん気づいていない。わたしの修理のこととなると、こうやって集中しきったまま、数時間動かない。飲まず食わずで手を動かして、終わったらすぐふらふらと床の上で眠ってしまう。

 そんなに一生懸命になるようなことだろうか? 失敗作のくせに、紛い物のくせに、と言っていたのに? 

 この人とわたしは、いったいどういう関係だっけ。本当に理解し得ないような相手だっけ。その存在を、とても恐ろしく感じる瞬間と、怒りがこみ上げてくる瞬間と――なぜだか、哀れだと思う瞬間が入り混じる。ひどい扱いを受けたのはあの一件だけで、それ以来取り乱すようなこともない。今はただの一人の研究者で、誰かを模したわたしという存在を、丁重に扱ってくれている。

 さっきの感熱紙を切り落として、新しく出力する。言葉で怯えさせないように、普段の「わたし」のままで。

『わたしは、うまくふるまえていますか?』

 接ぎ木としてうまく機能しているのであれば、それでいい。ひどい扱いを受けないのであればそれでいい。あの物置の中の折れた腕みたいに、資料の中のかつてのわたしみたいにならなければ、ひとまずはそれで。

 彼はちら、と横目で文字列を捉えたようで、ぼんやりと眺めた後やっとその意味を理解して、引きつった表情を見せた。

「それ、は」

 聞かなきゃよかっただろうか。いやわたしはあまりにも知らなすぎる。知る権利がある。何もかも吐き出したくなってしまう。どうにか気持ちを抑えて、冷静に、少しずつまた言葉を紡いだ。

『あなたの見ている人が、誰なのか知らないですが わたしはうまくできていますか』

「……許してくれ」

 震えた声で、そう一言だけ発した。いつだったか、わたしをなおすことを、彼は罪滅ぼしだと言った。

「謝らせてくれ。取り返しのつかないことをしてしまって、それで、謝って、君が許してくれるとは思っていない。ああ、やっぱり許さないでくれ。私が私の罪をなかったことにしないように、ここにいてくれればそれで」

息をする暇もないほど言葉を続ける。分かっていたはずなのに、だとか、引き止めればよかった、だとか、ぶつぶつと呟きながら涙をこぼしていた。

「私が殺してしまったんだ。私が、私は、罰を受けるべきだ。あの子のために、君にまで手をかける必要はなかったのに」

 ――あれは私の選択なのに、この人は自分の責任と思っているのか?

浮かび上がるいくつもの疑問を問い詰めるには、あまりにも、脆く見えた。

 

 ああ、なんてかわいそうな人。

『私の存在が、あなたの罰になるのですか』

 仕方がないから、そばにいますよ

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