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惑溺_沈む船.txt

  • 執筆者の写真: ペトリ皿エタノール
    ペトリ皿エタノール
  • 1月20日
  • 読了時間: 4分

更新日:1月20日

 物置の内側、それと地続きになったわたしの内側は、冬の空気に満たされて冷えている。相変わらず埃だらけで、静かで、ゆっくりと過ぎる時間は止まったようにさえ感じる。


 ――ああ、また、冬が来たのか。


 未だ進展はない。何もできない、ガラクタのわたしのままだ。

 喋れども喃語のような音が漏れるだけだし、手足は棒切れのまま。記憶の糸をたぐっても、かつての私が何者だったか、分からない。

 そこにあるのは、いつもあの人の記録だけだから。

 膨大な量の音声。文章。かつての私の記憶と置き換わるようにあるそれらは、時折勝手に動き出す。まるで白昼夢のように。

 わたしを構成する記録の一つ――自伝のような一節が、引用されて浮かぶ。


 あの日はひどい雨ふりだった。

 傘を忘れ、道中で買うにも、貧しい学生だった私には無駄遣いなどできず、近くにあったビルの自転車小屋に身を潜めて雨をしのいでいた。

 夕暮れ時の薄暗さと共に、雨はどんどんと強まっていく。濡れた腕に風が吹きつけて、冬でもないのに凍えてしまいそうだった。

 それでも何とか荷物だけは濡らさないように、紙袋を両手に抱きかかえたままじっとうずくまっていた。

 水に濡れると、どうしても不安になる。そういう時思い出すのは、いつも幼少のころだ。

 一度、通学路沿いの海に落ちてしまったことがある。自力で陸に上がれたけれど、もしあのまま溺れていたらどうしよう、だとか、今でも意味もなく考えてしまう。ずぶ濡れのまま家に帰っても、不安や恐怖の感情を受け止めてくれる相手は誰もいなくて。

 ずっと探していた。一人で、泣きながら。私の悲しみを受け止めてくれる止まり木を。


 その一節に紐付けされた、また別のデータが再生された。


音声記録 No.1797

----/--/-- 21:23 ■■■ 23歳

場所:□□自宅

「ええっと、ぼくの……子供のころの話ですよね。

これ、前にも話しましたっけ。小学校、3年……いや2年生だったかな、その辺りで。すごい暑い、夏の日で……。

海に、落ちたんです。通学路からちょっと離れた、堤防みたいになってるところで。

通学路、あんまり好きじゃなかったんです。友達もいなかったし、同級生や兄に会いたくなくて。その頃、その……弟も色々あって。

そうですね、寄り道して、家に帰るのも少し時間を見てて。で、そういう時期に、いつもみたいにふらふら海辺を歩いてて。

水面を眺めるのが、好きだったんです。何にも考えないで、時間が早く過ぎるみたいに感じられたから、堤防の上で、しゃがんで、じっとしてました。

でも、覗き込んでたら……ほら、ランドセルって、教科書とかノートとかたくさん入れると、けっこう重いでしょう。ああ、そうだ、あれ、終業式だったんだ。夕方じゃなくて、昼間で、それこそ持ち帰るものがたくさんあって、歩きづらかった。

それで、バランスが崩れて。頭から。大きな怪我はしなかった……けど、すごく怖かった。海水が目や鼻に入って痛いし、何より息ができなくて、苦しくて。海の底が、大きないきものの口みたいに暗くて。コンクリートの壁をどうにか上って、擦りむいた手足にまた海水が染みて痛かった。それから、死が突然、近くに感じられたことが、きっと、子供のぼくにはものすごく怖かったんだと思います。

家族……は、分かるでしょ、病院にも来なかったんだから。あの時もそう、父は仕事で、母は弟に付きっ切りで、兄は中学校の受験勉強をしてた。

あそこで、あのまま溺れてたらよかったかな……とか、時々考えてました。どうしても、こんな苦しい目に合うなら、もっと早くに……。

あ、ああ、はは。いやいや、今はそんなこと、思ってないですよ。あなたに助けてもらったのに。

だから……ほら、雨の日に渡してくれたタオル、あれね、すっごくうれしかったんですよ。水に濡れるの、そんなに得意じゃないから。」


 何度も頭の中で聞いた声だ。ころころと表情が変わる。楽しげな時もあれば、ひどく弱々しくもなる、拙いけれど、人として魅力的な、わたしの歌声の元。

 きっとこれがお手本なんだろう。わたしが水を苦手なのも、この人を模してるからで、わたしの歌声も無機質なものじゃなくて、こんな風に感情的に、魅力的に――。いつもそう考えて、窮屈になる。

 わたしにその影を重ねないで。身代わりみたいに、接ぎ木みたいに扱わないで。わたしはわたしで、あの人とは違う。知らない人の役なんて、できない。

 どうしようもない心を、わたしは記録に向けてぶつけたくなる。あなたが、どうにかしていれば、わたしは身代わりにならずに済んだのに。でも、どうにかって、何を? わたしは知っている。この人も、わたしと同じように選択したことを。

 音声記録、No.25876。それに紐付けされていたのは火災のニュース記事。

 この記録のせいで、わたしはこの人に、強く当たれない。それどころか、この体の同居人のようにさえ感じることがある。わたしはこの人に少なからず影響を受けている。言葉遣いも、感情の機微も、この人の一部分を受け継いでいる。

 ――お互い、きっと選択を間違えた。もしかしたら、あなたの言った通り、私もあなたも遠くへ流されれば、あるいは底に沈んでしまえば、良かったのかもしれない。


 もうすぐわたしができてから一年が経つ。

 もうすぐ私が死んでから一年が経つ。

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