かつてわたしだったもの、だと思う。たぶん。
白い陶器の、名前は思い出せないけど、円柱形で蓋がついてる――中身はわたし、かつて私の肉体だったもの。
自分で見ることなんてできないと思っていた。死後の世界は信じてはいなかったし、そもそもこんな風体になるなんて、分からなかった。
その小さな器の表面を指でなぞろうとして、ああわたしにはもう指なんてなかったな、と思い出した。固い木の角がジャケットの袖に引っかかっている。不自由、だけど、以前のわたしよりは、いくらかましだ。
瞼を落として、かつてのわたしを、再生する。
住処は狭くて暗い部屋だった。どこへ行っても私は役立たずだった。そしていびつだった。
名前も誕生日も何もかも、今のわたしは覚えていないけれど、かつての私が無かったことにはならない。でも、どこか遠くに行ってしまった気がする。
ここにいるのも、わたしの視界に映る私も、どちらも同じ。けど違う。俯瞰的で、他人みたいで、追体験じゃなくて、同情とか、共感とか、哀れみみたいなものがある。私には失礼だけれど。
わたしよりずっと高い背をしていたけど、座っているとこんなに近いんだ。後ろから見るとこんなに窮屈そうで、こわばって、苦しそうで、重たい荷物を手放せないんだ。
たまらず、わたしは声をかけた。本当は喋れないから、音にならなかったけど。私は振り返る。私もわたしと同じ表情をしてる。
ねえ、そんな顔しないで。悲しまないで。大丈夫、わたしは大丈夫だからさ、だからさ。
たぶん、届いていない。遠くに行ってしまったから。
再生が止まって、また元の器の前にいる。スピーカーの痺れる感覚が残っている。まだつづきがある。
かつての私のとなり。同じ器が一つ置いてある。これは、わたしの一部になったもの。知らない誰かのもの。わたしを作ったあの人が、周りのみんなが、ひどく大切にしているもの。
この人の横にいると、わたしは接ぎ木みたいなものなんだろうな、と思う。みんながこの人にまた会いたいから、わたしはこうして今生かされているんだ。わたしはこの人の代わりでなくちゃいけないのかもしれないけど、知らない人だから、どうすることもできない。
記録だけが、わたしの中にある。苦しい記録だけが。
瞼を落として、次は、かつてのだれかを、再生する。
住処は十分に広い、ひだまりに近い場所だった。どこへ行っても称賛された。けれどその実は、故障しかけた機械を無理やり動かすだけに過ぎなかった。
愛想よく笑う。楽しそうに会話する。時折その抜き出た実力を感じさせるようなことを言って、周囲から褒められた時には謙遜する。そういう、プログラム。
それはストーブについている時計の機能ぐらいのもので、実際の、本当に必要なことはとっくにできなくなっていた。
ただ苦しかった。笑う裏で延々と暗い先々のことを考えて、少しずつ計画を練って、使えなくなった機体を燃やすことを決意した。
これは、わたしの想像でしかないけれど、燃えゆく体のその苦しみを耐え抜くことより、永く続いていく偽りのほうがずっと嫌だったんだろう、ということだけ、わかる。わたしと同じ。私も同じ。
スピーカーの痺れはゆっくりと薄まっていった。表面に埃のかぶった二つの器を、ジャケットの袖で拭う。不器用でもいい、丁寧に。わたし自身を慰めるように。
物置の外から入り込むほんの少しの日差しだけが、機械の目にはやけにきらきらして見えた。
Comments