自身の体の冷たさに違和感を覚えて目を覚ました。悪い夢に汗をかいたせいだろうか。
それから、うまく力が入らず、横たわったまま動けない。小さい籠に閉じ込められたみたいに窮屈な感じがする。金縛りのような状態になっているのかもしれない。
どうにかじたばたともがいて、体を起こして座り込む。辺りは暗く、見たこともないような機械や工具が乱雑に置かれている。バインダーからはみ出た書類には、赤いペンで何度も修正された跡があった。空気は重く、なんだか埃っぽくて――でも、直接匂いが感じられるというわけではなかった。いくつかの感覚が変化している。視界だっておかしい。暗い部屋の中で、こんなによく周囲の様子が分かるものだろうか。
遠くで落ちた雫の音が大きく聞こえて、肩が跳ねた。床の上に連続して、ぴちゃ、ぱた、と一定に刻む。音の方を凝らして見ると、なにか、黒い水たまりの中に、白く細い塊のような――。
人の腕だ。
動かない体を引きずるように、無我夢中で床を這った。逃げなきゃいけない。どこへ? 分からない。でもとにかく、ここにいちゃいけない。ドアノブが掴めない手。立とうとしても曲がらない足。いつまでも冷たいままの背中。ああ、違う。違ったんだ。金縛りでも、汗が冷えたのでもなくて、そもそも血が通っていなかった。人の形の体裁だけで、あとは無機質な物体の寄せ集めになっていた。私は、わたしは今、一体何者だ?
扉を開けて、向かいにあったのは洗面所だった。流し台に腕を――袖の中の棒切れを引っかけて、自身の姿を見た。
記憶にはないのに、記録にはある。「自分の顔」とラベリングされたデータとよく似ている。
鏡を見るたび吐き気がして、いつも死にたくなるのを思い出した。
『おはよう』
小さく親指を動かす。眩しい。苦しい夢が途切れた。
妙にリアリティのある脳裏の景色は、外の光によってもやみたいに薄まった。
昨日と同じような、冬の高い空が見える。朝。朝か。もう? 眠る時間というのは本当に短い。
重くまとわりついた毛布を端へ除けた。狭い部屋の中の空気は随分と冷えている。
私は繰り返しを始める。
顔を洗うため洗面所へ向かう。照明のスイッチが音を立てる。いつだったかの新聞記事の見出しが目に入る。住宅街で火災。二十代男性が死亡。確か三年前。この新聞紙を貼り付けたのも三年前。隅が剥がれかけている。嫌だ。見たくない。貼りなおすのに苦労する。鏡が目に入る。洗面台に嘔吐する。貼りなおすのを完了させる。口をゆすぎ顔を洗う。詰まらないよう多量の水で流す。
服を着る。ありきたりなものを。朝食は食べない。食べたくない。無駄だから。
私は今日死ぬ予定だから。
『今日にします。明日を迎えたくないから。明日が一番大嫌いな日だから。』
通知が一つ。返信が一つ。分かりました。それだけ。愛しい友人だ。さようなら。
家を出る。狭い住処に鍵をかける。片付けは誰がやるのだろう。きっと誰かの迷惑だ。ごめんなさい。
駅まで歩く。体が重い。前に進めない。駅のホーム。人がいる。みんながこちらを見ている。恐ろしい。違う。見てない。誰もこっちを見てない。でも見てる。見られてる。怖い。
電車の窓が怖い。人と触れる。混みあっている。苦しい。逃げたい。消えたい。息が浅い。
画面に記された文字を読もうとする。頭に入らない。モニターに私の影が映ってる気がする。
焦点が合わない。手が震える。視界がぶれる。
話しかけられる。後ろから。喋れない。言葉がつかえる。気持ち悪い。惨めだ。泣いてはいけない。逃げてはいけない。聞き取れない。聞き返すこともできない。分からない。へらへらと笑い返すことしかできない。
やっぱりさ、あいつ、なんか変だよ。自分の考えとか、そういうのないの。ほらおはしは右手で、きもちわるいよ、こまったこだね、だめだよいけないんだなんでしゃべらないのごめんなさいやめなよへたくそかわいそうあたしはそういうつもりなくてだからだからみないでこないでやめてやめてくるしいこわいうらやましいあなたがどうしてわすれてきにしないでわすれておねがいだからあたしばっかりどうしてみないでみないできもちわるいあたしを
いやだいやだいやだいやだいやだ
嘔吐する。人がいない場所まで逃げた。人前で恥をかくよりはいいと思う。いいや。壊れたっていい。どうでもいい。明日には会わない人たちだ。ここで邪魔されたくない。
誰だっけ。困ったとき、頼れる人。頼っていい人。誰が言っていたんだっけ。誰が、誰のことを。忘れた。
暗い。眠っていた。冷たい気がする。いや、あつい? 分からない。空気が乾いている。肌がひりひりする。視界の隅がぼやける。泣いていた。
上着を脱ぐのをやめる。脇腹に手が当たった。骨と皮だけになるほど痩せ細った。これなら空だって飛べる。嬉しい。嬉しい? そんなわけがない。気持ちが悪いだけ。どうすればいい? どうすればよかった? どうすれば、私は私を認めてあげられる? 無理な話だ。それができたら、こんなことしない。幼稚な自分が嫌い。醜い自分が嫌い。いびつな自分が嫌い。出来損ないの自分が嫌い。全部嫌い。消えてしまえ何もかも。誰も。私も。
12階くらい。見下ろした先に車は通っていない。衝動だ。これは衝動だ。ほんとうはいつでもよかった。いつでも。毎日毎日思ってた。向かっては躊躇った。私がその衝動に駆られるのは、誰かを羨んで、泡みたいな理想を脳に描いてしまって、鏡を見ては絶望して、嫌悪して、吐き気がして、とにかく、それが私にとっての日常で、別にその気になれば、昨日だって一年前だってよかった。
でも今日にした。これ以上繰り返しを続けられない。続けたくない。ごめんなさい。人間をやめたいの。
『さよなら』
charon。何か言ってる。
『ありがとうございます。』
天と地が逆になる
違う。私は、唆された。本当に? 私自身が望んでいたことのはずだ。自身の願いなら受け入れなきゃ。
最後に浮かんだのは、隣にいたあの人の姿。
最後に聞こえたのは、どくどくと脈打つ音だけ。
あつい、さむい、いたみさえ分からない
ああ つめたい